Game

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エヴァンゲリオンみたいなコントローラー 知らんけど。

人生という繊細で奥深いものを、「勝ちか負けか」といった単純な枠にはめてしまうのは、賢いやり方とは言えません。

そもそも人生というのは、ひとりひとりが自分だけの生き方をしていて、その在り方自体に価値があります。だから、他人と比べる必要はないのです。


どうしても「人生はゲームだ」と考えたい人に対しては、こう言いたいのです。

人生には、実は無数のゲームがあって、人によってルールも目的も違います。

あなた自身、どんなゲームをしているのか、何を目指しているのか、そして勝ったところで何が得られるのか――それすら、よくわかっていないのではありませんか?



お金をたくさん稼ぐことを目指すゲームがある一方で、あえて何も持たずに、最低限の暮らしに耐え抜くことに意味を見いだすゲームもあります。

世の中で有名になることを目指す人がいる一方で、まったく注目されないことを望み、自分から他人との関わりを断ち、孤独の中に幸せを探そうとする人もいます。



問題なのは、あるひとつの価値観にこだわりすぎて、「これが正しい」と頑なに戦い続けてしまうことです。

そうすると、人生は本来の柔軟さや広がりを失い、バラバラになってしまいます。

自分に自信を持っているつもりでも、そのぶん他人に対して攻撃的になったりして、結果として自分の世界をどんどん狭く、苦しいものにしてしまうのです。




また、必死になって「正しく」「美しく」生きようとする人は、やがて中身のない“記号”の世界――見た目や肩書きだけで飾るゲーム――に満足するようになってしまいます。

本当の意味で自由に生きることを忘れ、社会のルールや理想像の中から一歩も出ない、ただの「正しさを守るロボット」のような生き方になってしまうのです。



たとえば、「時間」というゲームなら長生き、

「お金」のゲームなら大富豪、

「文化」のゲームならノーベル賞

「地位」のゲームなら総理大臣――

といったように、頭の中で知的なヒエラルキー(階層構造)ができあがっていて、どのゲームのゴールが一番かを迷わず信じてしまっている。



自分が本当に健康だと感じたことがないのに、「血圧はこれくらい」「体温は何度が正常」といった“健康の基準値”だけには詳しい――

そんな不思議な理解の仕方をしている人がいます。

でもそれは、本当に健康な人のあり方とは言えません。



本来、健康とは数値で測る以前に、「からだが軽い」「よく眠れる」「気持ちが安定している」といった、自分の実感としてわかるものです。

それを感じることなく、データだけで健康かどうかを判断しようとする姿勢は、むしろ不健康なものだと言えるでしょう。




特定の教えやカリスマ的な教祖に従う人は、その教えに書かれたゴール(到達点)を頭に思い描き、すでに示された“正解のルート”をなぞるようにして、毎日修行や努力に励みます。

「この通りに生きれば間違いない」という、師や教祖の権威によって保証されたルールに従うことで、人生というゲームをもっとも“効率よくクリアできる方法”のように感じているのです。




毎日悩みながら生きるより、「やるべきこと」が最初から決められているゲームに参加しているほうが安心感はある。

でもこの安心は、本当の意味で“感じる”ものではなく、あくまで頭の中で「こうすれば安心できるはず」と思い込んでいるだけなのです。




その結果、「安心したい」という思いが強くなればなるほど、逆に「不安」という概念が心の中でくっきりと浮かび上がり、かえってその不安に支配される。

つまり、安心を追いかけるこのゲームは、いつまでもゴールの見えない、不安拡張ゲームになってしまうのです。

たしかに