あ

意識の制限

意識の制限

私たちの神経系が一度に処理できる情報の量には、明確な限界があります。意識にのぼり、意味づけられる出来事の数は限られており、それを超えると互いに干渉し、混乱が生じます。 人が何かを考えているときには、感情を深く味わうことは難しくなります。思考と感情はどちらも注意のリソースを必要とし、それを同時に分け合うことができないからです。また、走ったり歌ったり、お金の計算をしたりといった活動は、それぞれが多くの集中力を要するため、同時に行うことはできません。 現在の科学的知見では、人間の脳が一瞬で意識的に処理できる情報の数は、およそ7つ程度だとされています(これは短期記憶の「マジックナンバー7」にも通じます)。そして、ある情報のまとまりと別のまとまりを識別するために必要な最小の時間は、約0.056秒(1/18秒)です。 この処理速度をもとに計算すると、人は1秒間におよそ126ビットの情報を処理できることになります。つまり1分あたり約7,560ビット、1時間では45万ビット、1日16時間活動していれば1日720万ビット――そして、70年の人生でおよそ1850億ビットもの情報を処
2 min read
楽しさの条件

楽しさの条件

ある少年がテニスを習い始めたとします。彼が最初に直面する課題は、「ボールをネットの向こう側に打ち返すこと」です。これは非常に難しいわけではありませんが、彼のごく初歩的なスキルにはちょうどよい難しさであり、そのため彼はこの活動を楽しむことができます。このようなとき、人は集中し、夢中になり、いわゆる“フロー状態”に入っているといえます。 しかし、この状態がずっと続くわけではありません。しばらく練習を続ければ、アレックスのスキルは自然と上達し、やがて「ただ打ち返すだけ」では物足りなくなって退屈を感じ始めるでしょう。または、より強い相手とプレーすることになれば、まだ十分なスキルがない彼にとってはその挑戦が大きすぎて、今度は不安を感じるかもしれません。 退屈も不安も、どちらも快い状態ではありません。そのため、アレックスは再び夢中になれる、つまりフロー状態に戻ることを自然と求めるようになります。では、どうすればそれが可能なのでしょうか? もし退屈しているなら、彼はより難しい目標に挑戦する必要があります。たとえば、自分より少しだけ上手な相手と対戦するなどです。挑戦のレベルを上
1 min read
余暇の浪費

余暇の浪費

たぶんこれは、予想ですけど、知り合いに挨拶をするモアイ像です 多くの人は、仕事が終わって家に帰ると、「せっかくの自由時間を有意義に使いたい」と思います。けれども、実際には「何をすればいいのかわからない」ということがよくあります。 実は、仕事のほうが自由時間よりも楽しみやすいのです。というのも、仕事にはあらかじめ目標やフィードバック、ルール、課題が組み込まれていて、それらが人を仕事に引き込み、集中させ、没頭させるからです。 一方、自由時間は決まった構造がなく、楽しむにはずっと大きな努力が必要です。スキルを必要とする趣味、目標や制限を設ける習慣、個人的な興味、そして特に内なる規律が求められます。 テレビを見る、スポーツ観戦、芸術鑑賞…etc こうした「間接的な参加」は、少なくとも一時的には、空虚さをごまかしてくれます。けれども、それは現実の課題に向き合って得られる集中や満足に比べれば、はるかに薄っぺらい代用品でしかありません。 外から与えられる娯楽や文化も、ただ受け身で消費するだけなら、心の栄養どころか、エネルギーを奪う存在になってしまう。私たちはむしろ疲れ、満たされなくなるので
1 min read
シジフォスの苦行

シジフォスの苦行

なにこの仏みたいな岩 シジフォスという人は、神さまから「大きな岩を山の上まで押し上げる」という罰を与えられました。でも、その岩は山のてっぺんに着くと、また下まで転がってしまいます。だから、シジフォスは何度も何度も、同じことを繰り返さなければいけません。しかも、それは永遠に終わりません。 この話は、私たち自身の姿を象徴しているように感じます。掃除や洗濯、仕事に家事──終わりのない日々の繰り返し。 私たちの暮らしも小さな繰り返しの積み重ねなのです。 この物語は、私たちの生活の日常を描いているように思えます。しかし一般には地獄の定義として解釈されます 逃げ道はないのです。人生とは、ただ岩を押し続けることにほかなりません。 ただ「押す」という行動そのものに集中することです。あれこれ考えず、ただ押す。ただ、それだけです。見返りを求めたり、評価されたいと思う必要はありません。 ただ押す。押す。押す。 岩みたいな仏
1 min read